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2009年05月31日

伊達政宗13

それでは今回も、引き続き政宗の逸話を紹介していきますね。
予告していた通り、彼の趣味を中心に書いていきたいと思います。

政宗にはこだわりがあったようで、朝は早く目が覚めたとしても、定時に側の者が起こしに行くまでは起床しなかったそうです。
また、冬に炬燵を使用する際には炬燵の片側を開けさせていたそうです。
どちらもどこか面白いこだわりですよね。


政宗は料理が趣味でした。
当時の大名は多趣味な者が多かったそうですが、政宗のように料理が趣味というのは極めて異例なんだそうです。
元々はこの料理、兵糧開発のために行っていたそうですが、戦国の世が終わり太平の世となると美食を極めるために料理の研究をし始めたそうです。
政宗は料理について、「馳走とは旬の品をさり気なく出し、主人自ら調理して、もてなす事である」という名言を命期集に残しています。
今の世に仙台発祥の料理が多いのは、政宗の影響だと思われます。
また、仙台城下では味噌倉を建てていましたが、大規模な味噌生産体制が行われたのは、これが最初と言われているそうです。

岩出山名物の凍り豆腐(高野豆腐)と納豆は、政宗の料理研究の末に開発されたものだとされています。
しかし、どちらも元々は兵糧用だったそうです。
仙台名物のずんだ餅も政宗が考案したという説があります。


政宗は喫煙者だったそうで、毎日起床後、昼、睡眠前と、規則正しく1日3回煙草を吸っていました。
当時の人々は煙草を薬だと考えていた者が少なく無かったそうです。
また、政宗の遺品の中に愛用していたとされるキセルがあります。

戦国武将として隙の無い印象のある政宗ですが、酒にだけは滅法弱かったそうです。
酔って失敗した逸話がいくつか残されているそうです。
その中には、将軍秀忠との約束を二日酔いですっぽかしてしまい、仮病を使って言い抜けたというものがあります。

政宗は料理の他にも多くの趣味を持ち、晩年は1日たりとも無駄に過ごすことは無かったと言われているほどです。


私自身、政宗が料理を趣味としていたことは知っていましたが、こんなにも熱心に取り組んでいた趣味だとは思っていませんでした。
武将としても、また教養人としても彼は優れていた人物だったんだなぁ…と改めて思いました。

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伊達政宗11

それでは今回も、政宗の逸話を紹介していきます。


二条城へ参内する時に、御三家でも許されることは無かった紫の馬の総を政宗は与えられたそうです。
周囲からの支持も、余程大きかったのではないでしょうか?


実戦経験が無かった将軍家光は、しばしば政宗など実戦経験豊かな大名に合戦について質問をしたそうです。
ある日、政宗と佐竹義宣(さたけ よしのぶ・佐竹氏19代当主)を招き、先にあった摺上原の戦いについてさまざまな質問をしましたが、勝者であった政宗は雄弁であったのに対して、敗者の佐竹義宣は終始無言で、唇を噛みしめているだけだったとそうです。
佐竹氏にとっては何とも辛い出来事だったでしょうね…。
自分の雄姿について意気揚々と語る政宗が想像できる気がします。


政宗が病床についた際、医者を手配した上で江戸中の寺社に快癒の祈祷を行わせたそうで、政宗の死ぬ3日前には家光自らが見舞いに訪れたそうです。
政宗が亡くなると、家光の父である秀忠が死んだ時よりも嘆き入り、悲しんだようで、江戸で7日、京都では3日間の間殺生や遊興が禁止されたと言います。
このことからも、いかに家光が政宗に対して強い想いを抱いていたかが分かりますよね。


政宗の遺品の中に、ロザリオがあったことなどから、彼は密かにキリスト教に帰依していたのではないかと言われています。
また、政宗の長女である五郎八姫は一時期キリシタンだったとの記録が残されているそうです。


逸話は続きますが、次回は政宗の趣味に関する逸話を中心に紹介したいと思います。


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伊達政宗10

伊達政宗の回もとうとう10回目になりました!
私自身、この記事を書きながら今まで知らなかったことが多くわかるようになりとても勉強になっています。
知れば知るほど、戦国の世を生きた彼らは奥が深いなぁ…と思いますね。

それでは今回も、政宗の逸話について紹介していきます。


最上氏の居城であった山形城が上杉家の攻撃を受けた際、片倉景綱が共倒れを狙おうとして、漁夫の利を奪うように進言しましたが、政宗は己の母親の安全を理由に、この進言を却下し援軍を出したと言われていますが、定かではありません。
しかし、この援軍は上杉軍が最上軍を攻めるのを傍観していたとの記録があるそうです。
上杉軍が山形城を落としてから動く陰謀を抱いていたのではないかとも言われています。


大坂夏の陣が終結した後には、天下泰平を願う家康の姿に心酔し、松平忠輝の改易などもあり天下取りの野望を諦めざるを得ず、己の領国経営に努めたようですが、この説は政宗の野望説を唱える史料(政宗が徳川幕府を倒し、婿の松平忠輝を将軍職に就けるという構想を立てていたとするもの)などから、否定されることも多いそうです。


政宗は、徳川家光からは非常に尊敬されていたそうです。
政宗本人の器量に加えて、自らを将軍として立ててくれた後見人だったからです。
また、家光自身が敬神していた祖父・家康とも渡り合った戦国の雄でもあったので、家光にしてみればあらゆる面で父親替わりだったのであろう第3代将軍の家光に「伊達の親父殿」とも呼ばれていたこともあったそうです。
幕府の意向はどうであれ、家光個人が政宗に向けた処遇は、明らかに外様に遇する程度を超えているものだと言えるでしょう。


政宗は将軍の前での脇差帯刀を許されていました。
側近が、酔って居眠りをしていた政宗の刀を調べたところ、中身は木刀であったという話があります。
これに似たような話が「平家物語」にも登場しています。

今回はここまでにします。

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伊達政宗9

今回は前回から引き続いて、政宗の逸話について紹介していきます。

政宗は、正室である愛姫との間にもうけた嫡出の次男、忠宗を政宗自らの後継者とし、側室であった飯坂氏との間に生まれた長男、秀宗はあくまでも庶子とみなしたそうです。
また、豊臣家との関係もあったために本家を継がせなかった秀宗は、幕府より新規に国主格大名として宇和島10万石の所領、宇和島藩(現在の愛媛県宇和島市)を与えられました。
(※側室の飯坂氏の通称である、猫御前という名は後世の創作ですが、山岡荘八の小説及び大河ドラマによって有名になったのです。)


摺上原の戦いの後、政宗が黒川城に入城する時、戦勝を祝って一族であった伊達重宗が即興で「昔もせで 芽野(かやの)の夜の時雨来て 袖にさんさとぬれからぬらん」と歌ったそうです。
これが、後に結婚式などおめでたい席で歌われることがある、東北民謡の「さんさ時雨」の元歌になったと言われていますが、俗説であり事実ではないだろうと言われています。
今も、福島県北部と宮城県では、結婚披露宴等の祝いの席では「さんさ時雨」が歌われています。
しかし、その一方で同じ福島県でも会津地方で「さんさ時雨」を歌うとひんしゅくを買うことがあるそうです。


政宗は家康に従い、後の天下取りの機会をうかがうことを優先しており、旧領であった上杉領に侵攻し100万石のお墨付き分の領地を自らの手で獲得することを狙っていました。
しかし、関ヶ原の戦いのが予想以上に短期間で終結してしまったため、この試みは達成することはありませんでした。


政宗は今まで紹介してきた武将たちよりも逸話が多いようですね。
また次回に続きます。

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伊達政宗8

今回も前回に引き続き、政宗の逸話を紹介していきます。

政宗の側室の中には、外国人の側室もいたそうです。
この側室は、政宗が出兵に従軍したときに捕虜として連れ帰った朝鮮人の女性だそうです。

衆道関係においては、小姓の只野作十郎(只野伊賀勝吉)へ宛てた書状が残されています。
(※衆道(しゅどう)とは、「若衆道(わかしゅどう)」の略であり、日本においての、男性による同性愛・少年愛の名称・形態のことです。)
ちなみに、作十郎と政宗の側室である勝女姫は実の姉弟(いずれも多田吉広の子)です。
同じく衆道の関係にあった片倉景綱の息子である重綱に対しても、大阪の陣に出陣する前の晩、翌日の先陣を願った重綱に対して「そのほうに御先鋒仰せ付けられず候て、誰に仰せ付けられるべきや」と言ってから、重綱の頬に接吻をしたそうです。
この記述は、『片倉代々記』に残っています。

政宗は朝鮮出兵に同行していないとする説がありますが、俗説であり事実ではありません。
政宗らが渡鮮したことを実証するものとして、隠居所であった若林城(現在の宮城刑務所)と政宗が再建した瑞巌寺に、朝鮮から持ち帰らせたとされる「臥竜梅」が残っているそうです。

今回はこのへんで。
まだ政宗には逸話があるので、次回に続きます。

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伊達政宗7

伊達政宗の回もとうとう7回目になりましたね…!
今回は、彼の逸話について書いていきたいと思います。

政宗の父、輝宗は伊達家中興の祖と呼ばれる第9代政宗にあやかって、自分の息子に政宗と名付けたという伊達家はそれまで足利将軍から一字拝領を習慣としていたそうです。
しかし、政宗の元服は足利義昭が織田信長によって追放されたあとであったために、一字拝領は無かったのです。
政宗本人もそのことを誇りにしていたそうで、実際、政宗はその先祖にまつわるところへの埋葬を望み結果的にそこへ埋葬されたのだそうです。

隻眼の行者である、満海上人の生まれ変わりであるという逸話は、政宗が存命していた頃から広く知れ渡っており、東北地方の昔話の中には「仙台様(政宗のことです)の霊力で母親の病気を治してもらうために旅に出る農民の話」などというものが伝わっているそうです。

正室である愛姫と、その他にも少なくとも7人の側室が居たとされています。
五郎八姫など十男四女をもうけたとの記録が残っているそうです。
正室の愛姫が産んだ嫡出子は、はっきりと記録に残っていますが、側室が産んだ庶子は成人した子しか記録に残っていない可能性があると言います。
また、側室も政宗との間に子供をもうけた女性だけが正式に記録され、実際には他にも関係を持った女性がいた可能性も大いにあるそうです。

逸話は次回に続きます。

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伊達政宗6

今回は、前回言っていた通り、摺上原の戦いについて書きたいと思います。

大崎合戦のあと、政宗は1589年には東北地方の覇権を賭けて会津の蘆名義広(あしな よしひろ)・佐竹氏の連合軍と戦います。
これこそが、摺上原の戦いと呼ばれるものです。
(ちなみに場所は、福島県の盤梯山麓・猪苗代町付近だったそうです。)
蘆名氏はすでに関白であった秀吉の傘下に入っており、大名となっていました。
ここで政宗が蘆名氏と戦うことは、つまり秀吉へ挑戦することを意味していたのです。
蘆名義広は1万5千の兵を率い、対する政宗は2万1千の兵を率いて盤梯山の中腹に陣を敷いたそうです。
この戦いで、伊達軍は騎馬武者を300騎、2千余りの兵を討ち取ったと言われています。
そして、黒川城を陥落させて、蘆名氏を滅ぼし会津地方を支配することに成功したのです。
政宗の勢いは衰えること無く、さらに兵を須賀川へと進めて二階堂氏を滅ぼしました。
この戦いと前後して、戦国大名の白河義親(しらかわ よしちか)、石川昭光(いしかわ あきみつ)、岩城常隆(いわき つねたか)が次々に政宗に服属していったのです。

このとき政宗は、現在の福島県中通り地方と会津地方、および山形県の南部、宮城県の南部を領地とし、全国的にも屈指の領国規模を誇る存在になっていました。

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伊達政宗5

それでは今回は、人取橋の戦い以降の政宗の生涯について紹介します。

人取橋の戦いが終わった後、政宗は更なる侵攻を行って1588年には、郡山合戦にて相手の領土を奪うことに成功します。
正妻である愛姫の実家の田村氏の協力を得て、現在の福島県中通り中部にあたる地域まで己の支配下に置けることになったのです。

関白だった豊臣秀吉は、関東・東北の諸大名、特に関東の北条氏と東北の伊達氏に対し、私戦禁止令を発令したのです。
しかし、政宗はこの発令を無視して戦争を続行したそうです。

これと同じ年に、政宗は北方の大崎氏家中の内紛に介入しました。
その際、兵1万を以て攻め入ったものの大崎氏の頑強な抵抗、そして味方であった黒川月舟斎の裏切りと大雪により敗北しました。
この期に乗じて伊達領南部に蘆名氏、二階堂氏らが侵攻してきました。
また伯父の最上義光とも一触即発の事態に陥るが、義姫の仲介によって和議が成立し窮地を脱することが出来たそうです。
これを大崎合戦と呼んでいます。

関白だった豊臣の命令を無視するとは、政宗はなんともすごい度胸を持っていたようですね…!
次回は、摺上原の戦いについて紹介したいと思います。

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伊達政宗4

今回は前回の続きに行く前に、政宗の父である、輝宗が死んだときのことを詳しく紹介したいと思います。

小手森城主の戦国大名であった、大内定綱(おおうち さだつな)は、二本松城主の戦国大名、畠山義継(はたやま よしつぐ)と手を組み、政宗に対抗しようとしていました。
1585年に、政宗は小手森城へと兵を進めました。
討伐の際は、降伏を認めないなどの徹底した粛清を行ったそうで、ここから彼の非道な一面を知ることが出来ます。
豪族のほとんどが親戚や縁戚同士だった奥州では、このような皆殺し戦術は前代未聞の大事件だったそうで、近隣諸国の戦国大名たちを恐怖に陥れたそうです。
これは、政宗の近隣諸国への見せしめだったのです。
しかし、後年には、政宗は戦略的見地から定綱を自らの家臣の列に加えています。

大内定綱の没落するところを間近で見た、畠山義継は和議を申し出てきました。
政宗の父の輝宗の取りなしによって、5つの村のみ、彼の畠山領として安堵することになったそうです。
しかし、輝宗がこの所領安堵の件などについて礼に来ていた畠山義継を城門まで見送りに行った際に拉致されてしまったのです。
政宗はこの時、狩りに出ていましたが急きょ戻り、畠山の一行を追いかけ、そこで自分の父である輝宗もろとも鉄砲で撃って1人も残さず殺害したのです。
この事件については、輝宗が自分とともに義継を撃てと命じたという説や、畠山の一行を追ってきた政宗の軍勢が既に鉄砲で武装していたことから、政宗の父殺しの陰謀だったのではないかという説もあります。
発生原因なども含め、諸説あるそうです。

自分のことを幼いころから大切に思い、育ててくれた父を撃つのはとても辛かったのではないでしょうか…?
改めて戦国の世を生きる大変さが分かる気がします。

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2009年05月23日

伊達政宗3

今回も引き続き、政宗の生涯について紹介します。
今回からは家督相続から摺上原(すりあげはら)の戦いまでの彼を紹介したいと思います。

1577年に元服し、1579年には仙道の戦国大名で三春城(みはるじょう・福島県)主である、田村清顕(たむらきよあき)の娘、愛姫(めごひめ)を正室としました。
1581年、隣接していた戦国大名・相馬氏への侵攻に15歳で初陣して、見事勝利を収めたといいます。

1584年に18歳で家督を相続し、伊達家17代を継承することになります。
このとき、父である輝宗は41歳の働き盛りでもあり、政宗は当初、年少を理由に辞退を申し出たといいます。
しかし、政宗の武将としての素質を見抜いていた輝宗の決意はとても固く、政宗はそのまま家督を相続することになったのです。

父である輝宗が亡くなった後は(このあたりについては次回、詳しく紹介します)畠山氏の二本松城を包囲し、畠山氏を救出するために集結した、佐竹氏・蘆名氏(あしなし)など3万の反伊達連合軍と安達郡人取橋(ひととりばし)で死闘を演じました。
数の上では五分の一以下の戦力しか無かった伊達軍は、重臣・鬼庭良直(おににわよしなお)を討たれ、窮地に立たされるものの、その辛さを持ち堪え、反伊達連合軍の撤退により政宗は勝利を収められたそうです。
これが、人取橋の戦いと呼ばれるものです。

今回はここまでにします。
また次回に続きます。

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伊達政宗2

今回から少し、政宗の生涯について書いていきたいと思います。
今回は幼年期についてです。


彼は、出羽の米沢城ににて生まれます。
彼の母である、義姫が懐妊前に白髪の老僧の瑞夢を見たという伝説や、政宗は万海上人の生まれ変わりであるという伝説が政宗存命中より語られていたそうです。

1571年、疱瘡(天然痘)を患い、右目を失明します。
当時、この病を治す治療法は無く、死の病でありました。
豊臣秀吉や、徳川家康に「右目はどうした?」と聞かれたときに政宗は、「木から落ちたとき、右目が出てきてしまったが、あまりに美味しそうだったので、食べてしまった」と語ったそうです。
これは、『三国志演義』の夏候惇の故事を引用したものだとされています。
また、片倉景綱が飛び出ていた右目をえぐり出したという話も有名です。

1572年、政宗の将来を心配した彼の父、輝宗が招いた臨済宗の虎哉宗乙(こさいそういつ)禅師による厳しい教育が始められ、仏教や漢字を学ぶようになったそうです。

1575年、神職の子である、片倉景綱が守り役を命じられ側近となりました。
景綱は政宗の側近中の側近として、そして時には軍師として主である政宗に生涯忠誠をつくしたのです。


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伊達政宗

今回から、伊達政宗について紹介していきます。
この武将の名前を聞いたことが無い方はいないのでは無いでしょうか?

伊達政宗は、1567年9月5日生まれの戦国時代の武将です。
出羽国と陸奥国を治めていた武将です。
また、陸奥仙台藩の初代藩主でもあります。

本性は藤原氏であり、家系は伊達朝宗(ともむね)を祖とする伊達氏になるようです。
第16代当主である、伊達輝宗(てるむね)と最上義守の娘である、義姫の間に生まれた嫡男です。
幼名は梵天丸(ぼんてんまる)、字(あざな)は藤次郎で、青葉神社(宮城県)に祭られています。

幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明しました。
(※天然痘とは天然痘ウイルスを病原体とする感染症のひとつです。非常に強い感染力を持っており、全身にのう胞を生じさせ、たとえ治癒しても皮膚など発症した箇所に傷跡を残すことから、世界中で不治、悪魔の病気と恐れられてきたものです。)
また、彼は戦国屈指の教養人として、豪華絢爛なものを好むことで知られていたようです。
また、彼の「政宗」という名は伊達家中興の祖といわれる室町時代の第9代当主であった、大膳大夫政宗にあやかったもので、この名と区別するために藤次郎政宗と呼ぶことも多いそうです。


次回から政宗について、更に深く紹介していきたいと思います。

子宮年齢

片倉景綱3

今回は、片倉景綱の逸話を紹介したいと思います。

景綱の主である政宗の初陣の際、敵兵を深追いしたために逆に敵兵たちに囲まれてしまったことがあったそうです。
そのとき彼は、「我こそが政宗なり」と自軍から進み出て相手を引き付け、政宗の窮地を救ったのです。

政宗は幼少時に疱瘡(天然痘)が原因で右目の視力を失いました。
しかも、その後その患った右目の眼球が飛び出し、その醜い顔つきに政宗は大きな劣等感を抱き、無口で暗い性格になってしまったそうです。
景綱はそんな政宗の性格を直そうと、政宗を侍医の居る部屋へと引っ張って行き、景綱自らが政宗の頭を抱え込み短刀で一気にその飛び出ていた眼球をえぐり出しました。
これ以降、政宗は暗い性格から明るく、文武両道に精進する少年へと成長したそうです。
この出来事があったからこそ、政宗と景綱の間には強い絆が出来たのかもしれませんね。


片倉景綱の死後、彼の人徳を慕っていた家臣6名が殉死したいう話が残っています。
政宗との絆、家臣たちからの絶大な信頼があったからこそ、景綱は今の世にまで名を残す名軍師となれたのではないでしょうか?

今回で片倉景綱についての紹介は終わります。

清く恋しく、美しく

2009年05月19日

片倉景綱2

今回は景綱が、一体どのような人物だったのかを紹介します。

伊達家中では、「武の伊達成実」と並び、「智の片倉景綱」と呼ばれていたそうです。ある説によれば、剣術にも長けており、幼少時の政宗の剣術指南も務めていたと言われるほど、智勇を兼ね揃えていた武将であったとされています。
また、大変な笛の名手であったとも言われています。
まさに文武両道といったところでしょうか。
景綱はとても頭が良かったことでも有名です。


また、こんな話も残っています。
彼の妻が、彼の子である重長を懐妊したときには、その当時主君である政宗に未だ子がいなかったのをはばかり、実子を殺そうとしたことがあったそうです。
この話から、彼がいかに主君の政宗を中心にして物事を考えていたかが分かりますよね。
今の世の中では絶対に考えられない主従関係と言えると思います。

景綱の知才は、時の天下人である、あの豊臣秀吉にも高く評価されたと言われています。
奥州仕置の際に、秀吉は景綱を直臣に迎えようと5万石の大名に取り立てようとしましたが、このときに、景綱は自身の主である政宗への忠義を選んで、この取り立てを辞退しています。
景綱は政宗に対してかなりの忠誠心があったようですね。
政宗もこのような素晴らしい重臣に恵まれ、幸せだったのではないでしょうか?


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片倉景綱(片倉小十郎景綱)

今回は片倉景綱について紹介していきます。
紹介していく中で、前回の記事と同じような内容が出てくる場合がありますが敢えて省略せずに書いていきますね。

片倉景綱は戦国時代から江戸時代前期にかけての武将です。
伊達氏の家臣であったことは有名であり、伊達政宗の軍師役を長年務めた人物です。
(※軍師(ぐんし)とは、軍中において軍を指揮する君主や将軍の、主に戦略指揮を助ける職務のことです。)
景綱は、仙台藩片倉氏の初代で、景綱の通称である「小十郎」は代々の当主が踏襲して名乗るようになったそうです。

景綱は、米沢(今の山形県)の成島八幡神社の神職であった、片倉景長の次男です。
彼ははじめ、政宗の父である、輝宗の徒小姓として仕えました。
その後、1575年に政宗の近侍となり、前述したように軍師として重用されるようになりました。

彼が参戦した主な戦は次の通りです。
1585年、人取橋の戦い
1589年、摺上原の戦い
1590年、小田原参戦
1593年、朝鮮出兵
1600年、関ヶ原の戦い など…

ここからも分かるように、主である政宗の主要な戦の大半に参加しており、いずれも伊達氏の危機を救っています。
また景綱は、安達郡二本松城(福島県)在番、信夫郡大森城主(福島県)、亘理城(宮城県)なども歴任していました。

次回は景綱本人の人物像に迫りたいと思います。


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