2009年05月31日
伊達政宗10
伊達政宗の回もとうとう10回目になりました!
私自身、この記事を書きながら今まで知らなかったことが多くわかるようになりとても勉強になっています。
知れば知るほど、戦国の世を生きた彼らは奥が深いなぁ…と思いますね。
それでは今回も、政宗の逸話について紹介していきます。
最上氏の居城であった山形城が上杉家の攻撃を受けた際、片倉景綱が共倒れを狙おうとして、漁夫の利を奪うように進言しましたが、政宗は己の母親の安全を理由に、この進言を却下し援軍を出したと言われていますが、定かではありません。
しかし、この援軍は上杉軍が最上軍を攻めるのを傍観していたとの記録があるそうです。
上杉軍が山形城を落としてから動く陰謀を抱いていたのではないかとも言われています。
大坂夏の陣が終結した後には、天下泰平を願う家康の姿に心酔し、松平忠輝の改易などもあり天下取りの野望を諦めざるを得ず、己の領国経営に努めたようですが、この説は政宗の野望説を唱える史料(政宗が徳川幕府を倒し、婿の松平忠輝を将軍職に就けるという構想を立てていたとするもの)などから、否定されることも多いそうです。
政宗は、徳川家光からは非常に尊敬されていたそうです。
政宗本人の器量に加えて、自らを将軍として立ててくれた後見人だったからです。
また、家光自身が敬神していた祖父・家康とも渡り合った戦国の雄でもあったので、家光にしてみればあらゆる面で父親替わりだったのであろう第3代将軍の家光に「伊達の親父殿」とも呼ばれていたこともあったそうです。
幕府の意向はどうであれ、家光個人が政宗に向けた処遇は、明らかに外様に遇する程度を超えているものだと言えるでしょう。
政宗は将軍の前での脇差帯刀を許されていました。
側近が、酔って居眠りをしていた政宗の刀を調べたところ、中身は木刀であったという話があります。
これに似たような話が「平家物語」にも登場しています。
今回はここまでにします。
- by ayakaf
- at 16:41