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2009年05月31日

伊達政宗4

今回は前回の続きに行く前に、政宗の父である、輝宗が死んだときのことを詳しく紹介したいと思います。

小手森城主の戦国大名であった、大内定綱(おおうち さだつな)は、二本松城主の戦国大名、畠山義継(はたやま よしつぐ)と手を組み、政宗に対抗しようとしていました。
1585年に、政宗は小手森城へと兵を進めました。
討伐の際は、降伏を認めないなどの徹底した粛清を行ったそうで、ここから彼の非道な一面を知ることが出来ます。
豪族のほとんどが親戚や縁戚同士だった奥州では、このような皆殺し戦術は前代未聞の大事件だったそうで、近隣諸国の戦国大名たちを恐怖に陥れたそうです。
これは、政宗の近隣諸国への見せしめだったのです。
しかし、後年には、政宗は戦略的見地から定綱を自らの家臣の列に加えています。

大内定綱の没落するところを間近で見た、畠山義継は和議を申し出てきました。
政宗の父の輝宗の取りなしによって、5つの村のみ、彼の畠山領として安堵することになったそうです。
しかし、輝宗がこの所領安堵の件などについて礼に来ていた畠山義継を城門まで見送りに行った際に拉致されてしまったのです。
政宗はこの時、狩りに出ていましたが急きょ戻り、畠山の一行を追いかけ、そこで自分の父である輝宗もろとも鉄砲で撃って1人も残さず殺害したのです。
この事件については、輝宗が自分とともに義継を撃てと命じたという説や、畠山の一行を追ってきた政宗の軍勢が既に鉄砲で武装していたことから、政宗の父殺しの陰謀だったのではないかという説もあります。
発生原因なども含め、諸説あるそうです。

自分のことを幼いころから大切に思い、育ててくれた父を撃つのはとても辛かったのではないでしょうか…?
改めて戦国の世を生きる大変さが分かる気がします。

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